雑記帳 ブログ

雑記帳 ブログP20



画像・星野伸氏、アニメーション・カツ氏・MarinMaterial著作

同人誌印刷 トム出版 阿騎野の雪

ひむがしの のにかぎろいの たつみえて

            かえりみすれば 月かたぶきぬ。

先日の話の続きみたいになるが、、

あのかぎろいの丘で、熊ケ岳の山頂にかかる月を眺めた。

とても感動的だった。それから又ヤマイが高じて、それならいっそのこと

都から安騎の大野まで、軽皇子が辿った道を歩いてみてはどうか?、、
と変な興味そぞろが湧いてきた。

だったら雪の降る日がいい。だってそうだろう、彼らが山越えで安騎の大野まで行ったとき、
雪が降っていたではないか。

雪か、、、私は膝をたたいて、万葉集のかぎろいの和歌の前に出てくる長歌の方を確認した。

   安みしし 吾ご大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神むさびせすと

      太敷かす 京をおきて 隠国の 初瀬のやまは 真木立つ

      荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の朝越えまして 玉かぎる 

  夕さり来れば み雪降る 安騎の大野に

      旗すすき 小竹 を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古へ思ひて

やはりあった。

たまかぎる ゆうさりくれば み雪ふる、、、
ふーむ、たまかぎるゆうさりくれば、、か。

雪は晩から降り出したのだろうか、、。

ま、いいだろう。
私は、奈良の飛鳥の里に雪の降るのを待った。

飛鳥大原の里

12月の末、飛鳥の里に雪が降った。

起きてみると大阪の町も珍しく雪化粧で白く染まっていた。

そヾろ神の物につきて心をくるはせ、

道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、 

(芭蕉)

この、芭蕉の心境ほどではないが、
私はチャンス到来とばかり勇んで飛鳥に出かけた。

近鉄南大阪線で橿原神宮まで行き、そこから橿原神宮線に乗り換え、
岡寺で降りた。

駅を出ると、まぁなんと美しいことか。
一面、飛鳥の里が真っ白、きらきら輝いている。

それを見て、ふとあの天武天皇の歌を思い浮かべた。

わが里に 大雪降れり 大原の

          古りにし 里に 落らまくは後

まぁまぁ、私の里に大雪が降ったよ、君の古ぼけた里には降ってないだろ。、

ずっと後になったら、君の里にもきっと降るだろうよ。

と天武天皇は、ご自分の奥様にジョーク風に、

雪の降った喜びを伝えたのだろうが、

このお返しがまたいい。

これに対する藤原夫人の反歌で 、

           わが岡の おかみに言ひて 落らしめし

雪のくだけし そこに散りけむ

あなた、なに言ってんのよ、あの雪はね、

私の丘の水神様に言いつけて降らせた雪なのよ。

そのとばっちりが、あなたの里に飛び散っただけなのよ。

ハッハッハ、ほんとに和やかで面白い。

天武天皇の飛鳥清御原宮と、ご婦人の住む大原の里との間は、

ほんの1キロも離れていないのに、

これを読む度に、夫婦仲の心の温かさが伝わってきて、

とても心が和んでくる。 

つづく

飛鳥への道

岡寺の駅を降りて、まっすぐ東に行くと、左手に甘樫の丘が見えてくる。

その甘樫の丘の北側が、ちょうど飛鳥浄御原宮の伝承の地である。

ここで天武天皇と、その皇后である持統天皇が政務をとられた所と伝えられているが、
最近では少し離れた板蓋宮跡が浄御原宮の跡地として考えられているそうだ。

つまり飛鳥浄御原は、いたぶきの宮の跡地に建てられたということらしいのである。

それからさらに東に行くと、こんどは右手に白壁の続く堂宇が坂の上の
ちょっと小高い所に見えてくる。

私は背中のリュックを背負い直して、その白壁を眺めながら石舞台の方向に
歩をやった。右に見える白壁のお寺は

橘 寺である。

ここは聖徳太子がお生まれになったという土地で、その跡地に建立された
とても由緒の古い寺院である。

つづく

たちばな

さて、その橘寺の「たちばな」であるが、このたちばなの由来は、該お寺と深いかかわりがある。

当時、宮廷官吏であった田道間守(たじまもり)は、

垂仁天皇の不老不死の薬草の求めに応じ、
大陸(新羅ともいわれる。)に渡った。

10年もの年月を閲してようやく持ち帰ったものが、その「橘」であった。

たちばなというのは、もともとインドシナ原産のミカン科の植物だが、

今では、わが国の紀伊半島以西の地域に多く栽培されている。

その橘寺の由来はこんなところにある。

面白いのは、あちらの中国にも同じような話があって、

例の、秦の始皇帝が廷吏の徐福に命じて、

不老不死の薬草を求めに日本に来させた話である。

その徐福が上陸したところは、紀伊半島の南端だったそうだから、

ひょっとしたら、「橘」はその徐福が持ってきたものではないだろうか、

と私は推測する。なぜならば、

  ミカンの栽培は紀伊半島に多い。
  田道間守が持ち帰ったものは
  非時香果(ときじくのかぐのこのみ)と書かれているそうである。

   つまり、ミカンとか、橘とか、そういう名称でかかれていない。

いやいや、これは私の単なる憶測で何の根拠もない冗談だから、

軽く受け流して頂きたい。



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